タモリ学という本を読みました。なかなか面白かったです。ちょっと哲学書な感じです。
特に気になった箇所を挙げておきます。
人間は不自由になりたがっている
タモリは、「自分」とは何かというところから説き始める。
たとえば、「会社の課長」「芸能人」「妻がいて子供がふたりいる」「友達が何人いる」といった、現時点での自分自身の”状況”を横軸とし、「親は医者」「家系」「叔父が不動産業界にいる」「子供が東大生」など、自分の周囲の人間が持つ”事実”を縦軸とする、と。この横軸と縦軸が交差したものが「自分」であるとタモリは言う。
縦軸も横軸も結局のところ他者との比較で自分の立ち位置を認識しているということになります。
「そうすると、自分というのは一体何か、絶対的自分とは何か、っていうと、わかんなくなってくるわけですね。それだけこういう、あやふやなものの中で自分が成り立ってる」
そんな「自分」を成り立たせている横軸も縦軸も「余分なもの」であり、それを切り離した状態を、タモリは便宜上「実存のゼロ地点」と名付けた。
そしてタモリは「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉を引用し、それを解説していく。
「自分で何かを規定し、決定し、意義付け、存在していかなければならないのが人間」であり、それが「自由」であるとすれば、そこには「不安」が伴うと。
この不安をなくするためには「自由」を誰かに預けたほうがいい、と人間は考える。タモリは言う。「人間は、私に言わせれば『不自由になりたがっている』んですね」
だから人は、「家族を大切にする父親」であったり「どこどこの総務課長」であったりといった「役割」を与えられると、安心するのだ。
その「役割」の糸こそがシガラミである。18歳から22歳くらいまでの大学時代は、そのシガラミがほとんどない時期である。とタモリは言う。そこでその時期にこそ「実存のゼロ地点」を通過しなければならない、と力説するのだ。
「若者よ、シガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!」と。
それを経験しているのとしていないのとでは、大人になった後、腹のくくり方や覚悟の仕方が違ってくる。
ゆえにそんなシガラミを象徴するような各種行事を排除していかなければならないと、タモリは結論付けるのだ。
結婚披露宴、クラス会、そしてクリスマスにバレンタインデー・・・それらの各種行事は「不自由になりたがっている」人間が不安から逃れるための幻想、錯覚、自己喪失の場であり、排除すべきものだ、と。
哲学的な内容ですが、上記の記述が一番印象的でした。人間は自由になるのを怖がっており、無意識に自分を社会システムの仕組みの一部に自分を組み込もうとしているという感覚は、なんとなく理解できる気がします。その感覚は、21世紀の現代よりも、自分たちの親の世代(昭和の世代)あるいはもっと前の時代のほうが、そういったものへの束縛されることを要求する周辺からの圧力みたいなものが強かった気がします。たとえば、早く結婚しろとかね。
昔は生きる術が限られていて、そういう不自由な繋がりを無理やりにでも作って繋がっていることがとても有効な手段だったとも言えるでしょう。
今も昔も、シガラミをたくさん持っている人ほど、社会人らしいともいえますが、実存のゼロ地点を経験しているかどうかは結構重要な気はします。たとえば、会社の不正行為を正すことが出来ず、自分もそれに加担してしまうような会社員(社会人)は、シガラミを完全リセットしてゼロ地点に戻るなんていう行動は、想像すらつかないのでしょう。
私は、仕事でも人間関係でも、夢見が悪くなるような嫌なことはスッパリ辞めちゃいますけどね。
言葉がものすごく邪魔をしている
もうひとつが、言葉に関するところ。
浪人生だった時にタモリは、ふと座禅を組もうと思い立った。
正式なやり方はよくわからなかったが、とりあえず部屋の隅であぐらをかき、目をつぶった。
するとすぐに雑念がどんどん頭の中に入ってきて、さまざまな言葉が浮かんでくる。
何時間もそれを続けていると、一種のトランスであろう「変な状態」になっていったという。とにかく目だけはつぶっていようとはじめは思っていたが、その意識も薄れていった。
やがて、もうどうでもいいとヤケクソのような心境になり、ふっと目を開けた。タモリの視界に飛び込んできたのは、見慣れた窓の外のねずみもちの木。それがなぜか新鮮で美しいものに見えて感動したという。「もしかしたらね、小さい頃はいろんなものがそういうふうに見えてたんだと思うんです。それが、だんだんそう見えなくなってくるのは、やっぱり言葉がいけないんじゃないか」
その時「言葉とは余計なもの」だと確信したという。
言葉はそもそも雑音だと考えれば、言葉とは余計なものにも思えるし、他者に働きかけるには言葉は大事なようにも思えるし。。
難しいですね。