第六章 移民一世の楽しみ
気になったところを抜粋する。
正直な話、異文化環境に手早く適応できる能力は、高等教育など受けないで来た方のほうが高いのではないだろうか。
移民一世の社会上昇度は言語習得度に正比例
われわれ越境主義者は、「超自由主義者」として暮らすことに一種の楽しみを見出していることに気づく。
越境主義者は従来の帰属意識に立ち返って安心している人種ではなく、むしろそういう概念から解き放たれて宙に浮いた状態を楽しめるひとなのだろう。
また、外国人労働者についても触れられている。
日本の中へ外国人労働者を受け入れるかどうかという問題をめぐって、経済的効用についての論議や「新しい開国への陣痛」といった悲壮な論調ばかりが多いけれど、われら超自由主義者から見ると、日本社会の中の民族的多様性が増大することによって、「社会的富」が膨れ上がり、「違いを共有する楽しみ」が増えることについての考察があまりないのは不思議なことである。
まあ、こういうポジティブな発想をもてる日本人はまだまだ少なくて、やはりその弊害のほうにばかり目がいってしまうものだ。そもそも、「外国人労働者を認めざるをえないのか?」という迷いがあって、なくてすむならナシで済ませたい、という前提の話だ。
自分が異なる社会への意味となるということは、新しい環境の中でマイノリティとして暮らすことを選ぶということである。
この経験は非常に重要だと思う。若いころに留学などを通じて、この経験をして叩きのめされる経験をしておくのは、その後の糧になるだろうと思う。
また、国籍を変えるという選択をした場合、姿形は日本人でも、日本はひとつの外国となってしまう。移民先の社会もやはり外国だから、世界の全てが外国になってしまうという点にも触れられている。そう、まさにこれが、自分の懸念している感覚で、最後に帰るところがないという感覚に陥るのがちょっとコワイ、という思いがある。
しかし、そうなってはじめて、人は世界の全てが自国であるという境地にも達することができる、全てが自分のものでないという状態は、全てが自分のものであるという状態と紙一重なのだ。
うーむ、この感覚には到達できそうもない。