個人的にはちょっと違和感があったので敢えて書いておこう。あくまで、私自身の価値観で、当事者の立場でもない部外者が発するノイズですので無視してください。
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奇跡の一本松、心棒通して保存 陸前高田、寄付募る
結局枯れたけれども、津波そのものでは倒れなかったその頑張りが、日本人の気質にヒットする、という感じなのかな。でも結局枯れたんですよね。この松が生えた経緯については知らないのですが(人が植えた?勝手に生えた?)、津波が来て枯れたとしても自然なことだし、津波に耐えて生き残ったとしても自然の流れの結果で、後者のほうがカッコ良かったワケだけど、人間は、その松の中に金属棒を突っ込んで立たせて、復興の決意の象徴とするわけです。ハリボテですよねそれ。私としては、その土地は定期的に津波によってリセットされるところだ、という事実のほうが重いわけです。
その一本松で励まされるひとがいるのなら、とやかく言う必要は全くありません。人間が忘れる動物であることを自身できちんと認識し、津波が来てハリボテになってしまった一本松を見ることで、津波に対抗しようしても次はまた予想を上回る規模で来るかもしれないという危機感を新たにして次の世代に危機感を繋いでいく起点になればいいですね。
逆に、
この一本松は津波に耐えて残りました。皆さんも津波に負けないまちづくりをして行きましょう。今度は松を守るためにもこんな防潮堤作りましょう、
みたいな思考回路になるとすると、つまり津波に耐えるもの対抗するものの象徴になると、ちょっと違うかなという印象。