宗教で幸せになれるのか?

知の逆転という本を読んだ。斜め読みしたところもあるけど。

知の英断 (NHK出版新書 432)
知の英断 (NHK出版新書 432)ジミー・カーター フェルナンド・カルドーゾ グロ・ハーレム・ブルントラント メアリー・ロビンソン マルッティ・アハティサーリ リチャード・ブランソン 吉成 真由美NHK出版  2014-04-09
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 人間は基本的に目先のことしか考えないし、自分のことしか考えない

その中では、知らなかったことも結構あって面白かった、たとえば、社会の崩壊について、

イースター島では、最後の一本の木まで切り倒されて、食料にする動物や鳥も消え、魚を捕るためのカヌーも作れず、ついには食人にまで追い詰められて、社会が崩壊してしまった。

また、グリーンランドのノース人については、

隣人であるイヌイット族と交流せず、海に囲まれていながら魚を捕ることすらしなかったので、最後の一人まで餓死してしまった。

モアイ像とか作って運ぶ知恵はあっても、森林を切り倒し尽くしたらどうなるかという想像力を持たなかったのは不思議だし、海に囲まれてても魚を捕るという発想がないのが不思議だけれど、事実としてそういうことはあったと。

「負の外部性」とは

もうひとつ、「負の外部性」という話は目から鱗だった。これは、市場取引の当事者以外の第三者にどういう影響が及ぶのか、ということ。ゴールドマンサックスについて、

彼らは、破綻するとわかっていた住宅ローンを基に有価証券を発行しました。その際自分たちのコストはカバーされているようにして、相当な利益を得ましたが、外部性については考慮していなかった。
この場合の外部性とはすなわちシステミックリスク(金融システム全体の危機)のことです。社会に対するコストを考慮に入れていなかった。彼らの住宅ローンの失敗が、システム全体を崩壊させるという外部性をはらんでいるのに、市場原理のなかではその部分は考慮されないのです。だから金融危機を招くことになった。

企業の立場としては、利益を挙げてこそ評価が得られるということになるので、自社の利益に走ってしまうことは当然でもある。負の外部性によって悪い結果がもたらされた後になって、そのきっかけとなった行為について批評されることはあっても、負の外部性による結果を見越して評価する能力は市場原理にはない。
だから市場原理に乗っかって突き進むのは危険ということになるが、一方で、政府などの別の大きな力によって抑制するあるいは方向を変えさせるというのも、それはそれでリスクがありそうなので難しいですねえ。
でも、この「負の外部性」という概念を小学校くらいからしっかり教育するというのは意味があるように思う。日本でいえば、一種の「道徳」の授業になるのかな。中国の一般的な価値観のなかでは、この「負の外部性」への配慮は少ないように思う(偏見だろうか)。

宗教で幸せになれるのか

さて、宗教に関してだが、個人的には特に何も信仰していない。一方で世界を見渡すと、ほとんどが宗教間あるいは人種間の争いである。

昔、大学のときの地理学の先生が、

世界では何の宗教も信仰していない者はおかしいと思われる。宗教は何だと聞かれて、無宗教だったので「No」と応えたら険悪な雰囲気になった。焦って、日本では「能」という宗教があるといって誤摩化した。能は宗教じゃないけど。

という話をされていたことを思い出したけど、それほど世界では信仰というものは普通にあるものなんでしょう。再び引用、

では、宗教がもたらす恩恵とは何でしょう。いろいろ考えられますが、第一には、宗教は協力な動機を与えるということです。過去において宗教は、隣国の人々を殺すための動機を与え、制服意欲をあおって、時の支配階級にとって有利になるように働いてきました。支配階級を維持するには大衆から食料や財を搾取する必要がありますから、その際自国のリーダーが太陽神の子孫であると信じれば、自然とリーダーに従うようになります。つまり宗教は強力な政治力となりえたわけです。

結果的には、宗教は支配の道具に使われていたという背景がある。現代ではそこまではいかないかもしれないが、争いの元にはなっている、殺したり殺されたりしてる当事者はどう見ても幸せそうではない。でも宗教がなんでも悪いかというとそういう分けでもないと考えます。科学で説明できないことや理不尽なことがあってもそれを説明してくれる(あるいは納得させてくれる)よりどころとしての宗教というのは理解できます。xxxx原理主義とかさ、オウムなんかもさ、マジメに取り組みすぎると思うのですよ。

ゆるく行きましょう

で、私が考えるのは、信仰があってもいいけどあんまりマジメにやるの止めましょうよ、ということ。自分に都合いいときだけ信仰する、っていうのでいいんじゃないですかね。マジメにやりすぎると、「ワタシ正しい、アナタ間違い」という思考に必ずなってしまうと思う。ゆるくやると、「ああ、そういう手もあるけど、オレはこういう感じでやってる」と相手も認められるんだよね。

普段神様とか全然信じないけど、受験の前には神頼みして絵馬とかに頼み事しちゃったりする。そのくらいでいいんじゃないかと。ハロウィンは楽しむし、クリスマスもがっつりエンジョイ、みたいな日本人の軽薄な宗教観がちょうどいいと思います。これからもそういう調子でいきましょう。

 

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